このところ愛知トリエンナーレの話題をちょこちょこ見かける。
というかその中のひとつの企画展である「表現の不自由展」が最終的にはテロまがいの脅迫を受けて中止に追い込まれたためと名古屋市長からの抗議などもあっていきなり話題性を持ってしまったからだけど。SNSなどで作品や表現についての批判的なポストがあったりして目につくようになってきてた。
そもそも物議を醸す事が予想されてたみたいだったのであまり気にはしていなかったし僕自身、直接的に強いメッセージ性を持つ作品があまり得意ではないというのもあって実はあまり気に留めていなかったけど行政が口出ししてきた事は相変わらずだが最悪だと思っていた。それに脅迫文の中にガソリン携行缶云々というのがあったらしいことであまりにも悪質なこの脅迫が何としても裁かれるべきだということは強く思っていた。
そしてさらに時間が経つにつれこの展示に好意的な立ち位置のポストを見かけるようになってからはちょっと展示作品に興味が出てきた。
今回の問題の中心となった少女の像は椅子に掛けた等身大の彫刻作品の隣に座って写真を撮ることができるらしいこと、その他にも昭和天皇の写真を焼いて映像に収めたインスタレーションもあったとされ、かなりの反感を買う要素となっていたようだ。
今週は仕事、個展の準備やいろいろなことで落ち着かなかったけどふとした休憩の時間にちょっと想像してみた。その彫刻の隣に座ったとしたら何を思うだろう?日本人である自分に対する非難?あるいは何も感じないだろうか。
戦争中の出来事を感じたり、罪の意識や被害者意識にリアリティを持たせるには歴史の中であまりにも僕らは遠いところにいる。その事は逆に歴史上の悲劇をモチーフとする作品をその特定の出来事というよりもっと普遍的な問題提起として判断できる世代たり得るのかもしれない。もちろんバッシングという短絡した捉え方をされテーマを矮小化されるリスクは大きい。
表現のあり方で言えば例えば僕自身の写真を焼くという作品に出会ったらどう思うのだろうか?
僕はそこそこ鈍感な人間でもあるのでとりあえず怒りは感じない気がする。刃物で切りつけられたりすればかなり必死だろうが写真を焼かれても怪我はしないから。でもなぜそのような表現をするのか作者に問うことができるなら当然そうするだろう。説明がなければ通じないような作品はそもそも不完全だという人もいるかもしれない….
とぼんやり思う程度だったのだが今日になってその想像は的が外れていたことを知った。実際に「表現の不自由展」をみて丁寧にレポートした記事を読むことができたのだ。写真を焼いたと見えた作品はもっと重層的な背景があり、僕が目にした、耳にした情報は意図があったのか無いのかはわからないが扇情的に見えるように切り取られていたようだ。と言ってもこれもまたネットからの情報であり断言できる立場には無いのかもしれなけれど。
フェイクニュースという言葉がある。SNSが情報発信の一翼になってしまった現代、フェイクとは言えないまでもコンテキストの欠落やもっと意図的な隠蔽が溢れている。自分の目の前にあるもの、触れるもの、聞こえる音だけが信じられる事なのかもしれない。
昔、あるアーティストが「アートにとって大切な事はリアルであることでは無い。リアリティがあることだ」書いていたけど全く逆にリアリティよりもリアルであることが大切な局面を知った気がする。