それを、真の名で呼べるのか

先日、作家かとうひろみさんがミュージシャンをアーティストと呼ぶ事に対する違和感について書いていて、僕も以前に似たようなこと…違和感まではいかないまでもいつからかアーティストという言葉がよく使われるようになったなと思ったことがあった。
おそらくはマルチな活動をする人も増えたり、ミュージシャンという一面的な呼び名を避けたいという思いのもとに誰かが使ったのがなんとなく乱用されるようになったのかな、と勝手に思ってあまり深く考えたことはなかった。

以前レベッカ・ソルニットの著作「それを、真の名で呼ぶならば」を読んだ。
世の中で起きている問題に対して偏見や差別など根底にある共通項を把握し定義し単なる事例の羅列としてではなく類型として命名するというような内容だったと思う。
例えば女性に対する差別、女性蔑視、あるいは女性嫌悪という思考に対してミソジニーと呼ぶことでフェミニズムが問題としてきたことをクリアにするというような。
タイトルだけでもピンときたし、これは絶対読むべき本だと思った。

その後今年に入ってジョージ・オーウェルの「1984年」に対するマーガレット・アトウッドの論考を読んだ。
アトウッドは多くのディストピア小説での女性の扱いが男性視点であるという批判的文章も書いていたりするんだけど、それはさておきその中でフェミニズムという言葉を使うことに慎重…というかどちらかというと否定的な書き方がされていた。
物を言う女性を描こうとするとフェミニストだと見なされてしまう、と。

フェミニズムが抱える不幸というのを個人的には思ったことがあって、それはミソジニーという言葉がおそらく後発でしかも未だに一般的とは言いにくい状況の中、というかそもそもそれ以前から(フェミニズムが)どういう問題に対峙してきたのかが曖昧にされ、虚実含んだ様々なイメージを盛り込まれてしまった、沢山のノイズを纏ってしまったのではないかということ。

プログラミングの世界にオブジェクト志向という考え方があって、雛形を作って属性をパラメーター化してそのパラメーターにデータを入れていくことで実体化するというような。
例えば人間の雛形を作って性別や年齢や身長、体重などをパラメーター化してそこにデータを入れていくことで各個人という実体ができるみたいな感じ。
プログラミングの世界に限らず比喩的な意味ではこのオブジェクト志向に近い考え方はいろんな分野で応用されている気がする。効率化や体系的に把握するのには良いかもしれない。
でも時代が流れるにつれそれぞれの事象に考慮すべき要素は増え、多様性なのか例外なのかという判断も難しくなっている気がする現代、ともすればバグを抱えたままのオブジェクトが世の中に流れ出しているかもしれない。
言葉の定義、命名もそういうリスクを孕んでいる。

最近冗談めかして「コンテキストの時代」などと言ってみたりする。
でもこれは結構本気で思っていて(多分本気で思っている人も多いと思う)、某大手企業の会議では箇条書きを禁止なんていうニュースも耳にしたりするように文脈を失った要約は情報を伝える機能を欠くどころか全く違った情報を伝達しかねない。

「マイクを持って歌えば何でもかんでもアーティストという状況」に対するかとうさんの違和感には共感するけど、おそらくどこかの時点でアーティストという言葉がしっくりきた文脈というものが存在したのかな、とも思う。

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