それを、真の名で呼べるのか

先日、作家かとうひろみさんがミュージシャンをアーティストと呼ぶ事に対する違和感について書いていて、僕も以前に似たようなこと…違和感まではいかないまでもいつからかアーティストという言葉がよく使われるようになったなと思ったことがあった。
おそらくはマルチな活動をする人も増えたり、ミュージシャンという一面的な呼び名を避けたいという思いのもとに誰かが使ったのがなんとなく乱用されるようになったのかな、と勝手に思ってあまり深く考えたことはなかった。

以前レベッカ・ソルニットの著作「それを、真の名で呼ぶならば」を読んだ。
世の中で起きている問題に対して偏見や差別など根底にある共通項を把握し定義し単なる事例の羅列としてではなく類型として命名するというような内容だったと思う。
例えば女性に対する差別、女性蔑視、あるいは女性嫌悪という思考に対してミソジニーと呼ぶことでフェミニズムが問題としてきたことをクリアにするというような。
タイトルだけでもピンときたし、これは絶対読むべき本だと思った。

その後今年に入ってジョージ・オーウェルの「1984年」に対するマーガレット・アトウッドの論考を読んだ。
アトウッドは多くのディストピア小説での女性の扱いが男性視点であるという批判的文章も書いていたりするんだけど、それはさておきその中でフェミニズムという言葉を使うことに慎重…というかどちらかというと否定的な書き方がされていた。
物を言う女性を描こうとするとフェミニストだと見なされてしまう、と。

フェミニズムが抱える不幸というのを個人的には思ったことがあって、それはミソジニーという言葉がおそらく後発でしかも未だに一般的とは言いにくい状況の中、というかそもそもそれ以前から(フェミニズムが)どういう問題に対峙してきたのかが曖昧にされ、虚実含んだ様々なイメージを盛り込まれてしまった、沢山のノイズを纏ってしまったのではないかということ。

プログラミングの世界にオブジェクト志向という考え方があって、雛形を作って属性をパラメーター化してそのパラメーターにデータを入れていくことで実体化するというような。
例えば人間の雛形を作って性別や年齢や身長、体重などをパラメーター化してそこにデータを入れていくことで各個人という実体ができるみたいな感じ。
プログラミングの世界に限らず比喩的な意味ではこのオブジェクト志向に近い考え方はいろんな分野で応用されている気がする。効率化や体系的に把握するのには良いかもしれない。
でも時代が流れるにつれそれぞれの事象に考慮すべき要素は増え、多様性なのか例外なのかという判断も難しくなっている気がする現代、ともすればバグを抱えたままのオブジェクトが世の中に流れ出しているかもしれない。
言葉の定義、命名もそういうリスクを孕んでいる。

最近冗談めかして「コンテキストの時代」などと言ってみたりする。
でもこれは結構本気で思っていて(多分本気で思っている人も多いと思う)、某大手企業の会議では箇条書きを禁止なんていうニュースも耳にしたりするように文脈を失った要約は情報を伝える機能を欠くどころか全く違った情報を伝達しかねない。

「マイクを持って歌えば何でもかんでもアーティストという状況」に対するかとうさんの違和感には共感するけど、おそらくどこかの時点でアーティストという言葉がしっくりきた文脈というものが存在したのかな、とも思う。

アーティチョークを調理した

かなり唐突に意味不明かもしれないけどアーティチョークが大好きで、しかも瓶詰めとかじゃなくて(瓶詰めも好きだけど)フレッシュなものを蒸して食べるのが好きで以前父親に頼んで育ててもらったこともある。
でもなかなか気候的に合わないのか1〜2年で枯れてしまって収穫はほどほどだったり。

先日栽培農家さんのサイトから取り寄せしてみたのを今日調理しました。

アーティチョークって食べられるところが結構少なくてゴミがたくさん出て棘があるから下拵えが大変で大体ちょっと指が痛くなって、あと中の花が細い毛のような(要するに巨大なアザミなので咲くと紫色のけばけばになる)ものでそれも食べられないからスプーンとか指でほじくり出す。

大体深爪になる。

そこまでして食べたいか?と言われれば…

食べたい。

ニンニクとアンチョビ、イタリアンパセリのみじん切りをオリーブオイル多めで火を通しそれをパン粉に吸わせながらさらに火を通しブラックペッパーを沢山入れて詰め物を作る。

このパン粉だけでもかなり美味しい。
ご飯3杯はいけ…

いや、パン粉でご飯食うなよって話だけど。

これを詰める、というか載っけて蒸します。

アーティチョークってゆり根に似てるとかニンニクっぽいとかいろいろ言われるけどキク科の植物独特の香りがあるから僕からするとなににも似てない。
これしかない感じ。

最近見かけるキクイモはちょっと似てるかな。

とにかく最高に美味しかった。

また食べたい。

月の部屋で会いましょう

レイ・ヴクサヴィッチの「月の部屋で会いましょう」という短編集を読んでる。
今、何冊かの短編集を並行して読んでる中では進みが遅い方だ。
つまらないからではなくてなんとなく他の本が優先されているだけ。

月の部屋で会いましょう(Meet Me In The Moon Room)というタイトルがとても気に入ったので一番最後に収録されたそのタイトルの作品を先に読んでみた。
というか久々に英語版も取り寄せて最初にそれを読んでみた。
英語得意ではないから細かなディテールなどの読み逃しはあるものと思って読んでみたけど、そうは言ってもそんなに極端に間違えるということもないものだ。
会話とは違って言葉が逃げていかないからじっくり考えられるし。

Paul Bowlesの名前が出てきたりタンジェが出てきたりしてとても嬉しい。
以前ボウルズの作品も英語版にチャレンジしてみた事がある。
ボウルズの小説の日本語訳はもう新品で手に入るものはないのと英語版の表紙ですごく綺麗なものがあって、いわばジャケ買いだったけどそれも短編だったから何作かはなんとか読んでみた。

月の部屋〜のなかで主人公の男性の元に北アフリカで亡くなったと聞いていた恋人から電話がかかってくる。
不思議なお店で再会し「ポールボウルズに会えた?」「ええ、実は会えたのよ」なんて会話する。

こちら側の世界からでていく事のなかった自分と向こう側の世界から帰還した彼女。
「タンジェ?」「タンジェ」というやりとり。
彼女の身にどんなことが起こったのかなんとなくわかる。
とても切ないけど再び心を通わせはじめる場面が抑制が効いていて、ただあたたかいだけではないのがむしろ心に残る。

短いけれどとても良い。

3月クララさんのレボリューション

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挿絵の描きやすさは…人間をメインに、と考えると難しく感じましたが描き始めてみるとなかなか順調だった。
この作品の場合は読み終わった後オブジェクトというよりラストシーンを描けたら良いな、という思いがあってスケッチはそこから始めた気がする。
このシーンだったか、かとうさんの挿絵だったかでややネタバレっぽいので扉絵ではなく本文の途中に使えたら、というような提案をもらって扉はもっと曖昧な方が良いのかもと思い直したのだった。

主人公がバレエをやっていたことからなんとなくトウシューズを着けた脚のデザインを思い立ち、その後ラストシーンの事を考えていたらパドゥドゥという言葉がひらめいて装飾的に4本の脚を描いたのがこの扉絵です。(とは言えパドゥドゥは男女のペアの踊りの事で同性のペアは単にデュエットというらしいです)

今回、正直言って一番ビックリしたのはこのレボリューションという作品でした。
Vol.2の時はある意味るるるるんの3人の作品がそれぞれにとても馴染んでいて、それは今思うとクララさんの「光の中で(Vol.2に収録)」に寄るところが大きかったのかも。
UNIさんが寄稿する「アフリカ」の編集者下窪さん(今回3人と下窪さんの対談も収録されています)も確か対談の中で書いてたと思うけどクララさんの作品の立ち位置がかとうさんとUNIさんの間でふたりを取り持っていると。
僕の中でも3人が直線上に並んでいたような感じに思っていました。

それがVol.3ではこの作品「レボリューション」がその直線の上から離れ、より独立した印象が強くなり、そのことでかとうさんとUNIさんの作品も今まで以上にそれぞれの個性が際立つようになった気がします。
3つの作品の配置が三角形になって、よりバリエーションに富んだ一冊になったと思います。

ということはこのまま行くとVol.4では四角形に…

四角形になる理由はどこにもないですけど。

vol.2の「光の中で」と同様「レボリューション」もいくつかの章に分かれ章ごとの関係、繋がりはともすると見失いかねない(のは僕だけ?)。
プロローグでの古風とも言える語りから次の章では突然ある女性による日記。
日記の内容はいわゆる”勝ち組”的な男女の高級ホテルのラウンジでのいかにもそれっぽいシチュエーションで、その情景とプロローグとのギャップに少し困惑する。

その後の展開も予想を超えていてとにかくついていくしかないと思いながら読み進める。
ただ描写が丁寧でこれから起こる尋常ならざるストーリーへの流れが読んでる側でも必然と感じることができるし、ちょっとした形容、例えや言い回しなんかも独特の表現なんだけどすごくしっくりくる。

もしかしたらレトリックというのは読み手にも好みがあったり合う合わないがあるかも知れないけど、そういう意味ではこの作品であちこちに散りばめられている表現が僕にはとても合うのだと思う。

そしてこの作品は終盤に近づくほどスピード感を増していく。
その中でつい気付けないまま読み進めてしまうのだが、途中で何度か差し挟まる日記は実は虚構であるらしい。
それは最終的には作品中でも語られ、対談の中で作家本人も説明しているように”バブリーなちょっと痛々しい”虚飾に彩られた作り事である。

そのことを意識しながら読みかえすと最初の日記のホテルのラウンジでのバンド演奏がWaltz For Debbyで始まり、日記を書いた本人がLittle Girl Blueをリクエストするというのはなんだか意味深だ。
Little Girl Blueは年齢を重ねた孤独な女性に歌いかける歌だから。
このリクエストは虚飾の中に仕込んだ告白ともとれる(と僕は思ったけれどクララさんなら強迫観念と言うかも知れないし、あるいは何も仕込んでませんと言われる可能性もあるけど)。

全体を通して予想外の展開と思いもよらない奇抜な小道具(主人公の父親が作る発明品とか)がなぜかすんなりと受け入れられる。
受け入れられるけど予測はつかない。

主人公とそれまで姿を表さず影にいた登場人物との再会はとてもスリリングで一体何が起きるのかと思っているとそこからさらに予想外のエンディング…

もしかしたらこういう言い方は月並みな、陳腐な表現かも知れない。
こんな風に思う人は結構多いかもしれないけど、この作品は僕の中ではすでに一本の映画のようになっている。

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UNIさんの「丸、四角。どれもざらりとした断面」

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挿絵の描きやすさは一番難しかった。

普段自分の描くものはほぼ犬のような猫のようなという動物が多いんだけど、今回かとうさんの作品以外は動物は出てこない。
この作品の場合は段ボール箱、ハンマー、もちろん鏡などのオブジェクトのスケッチしたり、ジャガイモまで描いてみたり。
実は鏡ってとても難しいですよね。
映り込んでるのを描いてやっと鏡っぽく見えるみたいな。

あとはどこかに夫婦を暗示するものを描きたいと思ったり。

とにかくUNIさんのこの作品用には一番たくさん描いたと思います。

そして少し考えがまとまってきた頃、送ったスケッチへの回答がなんと…
「そう言えばタイトルが変わったんですけどお伝えするの忘れてました」
おおー!!!!
しかもこんなにもサラッと。
いや、文字で読むからサラッと感じただけだとは思うんですけど。

最初漢字2文字だったタイトル(ここでは明かさないけど)は「丸、四角〜」に変わったとのこと。
2文字のタイトル用に描いた扉用挿絵はひとまずボツに。
その2文字の漢字も形を整えるのが難しかったのでとても練習したけど仕方ない。

大丈夫です、100回くらいしか書いてないから。

主人公、茜里という名からはちょっと若い世代を想像してしまう。
キラキラネームではないけど変換で出てこない名前。

冒頭、茜里が電車に乗ってひとりで海に行くシーンから始まっていてその電車内に乗り合わせた人達ののどかな描写をしながらも、もし暴漢が乗り込んできたらという不穏な想像がこの主人公の人物造形の核になっているかもしれないと思う。

ここは少しだけUNIさん本人の印象とかぶる気がする。

今まで僕が読んだところではUNIさんの描く世界では突拍子もない事は起きない、と少なくとも挿絵制作時点ではそう思っていた。
暴漢は想像の中にしか出てこないしもちろんUFOなんかも出現しない。
(今思えばるるるるんVol.4のお題リクエストにUFOでエントリーすれば良かった。)
登場人物は日々の生活の中で、特に対人関係などから小さなノイズを受け取り蓄積させていく。
同僚から頼まれて箱いっぱいのじゃがいもを購入してしまう外面の良い夫、登もそのノイズの少なからぬ要因となっている(むしろ主な原因なのかもしれない)。

外面の良い夫…

あ、ちょっと止まってしまった。

これはおそらくごく普通の人生そのものだ、とも思うけどそのノイズは大きさも種類も様々で受け取る人によってもその作用は様々。
夫、登にも葛藤があるはずであり、茜里がその事に思いを巡らすこともあるのだろう。
茜里の子供の頃、ある日母親の帰りが遅くなった時の記憶が胸を打つ。
自分の中に蓄積されていることと母親の中に蓄積されていたかもしれないことが混ざり合い自分にとっての母、母にとっての自分という存在のことを思ったのではないか。

そして後半「鏡のテクニーク」というやや怪しいヒーリングのような自己啓発のようなところへ出かけていく。
そこへは行かないだろうというシチュエーション、たまたま再会した微妙な関係らしき知り合いと、その人のお勧めには従わないだろうと思うようなエピソードが語られているにも関わらずわりとサラッと行く。

まるでUNIさんがタイトル変更の報告をする…

それは関係ないけれど。

鏡のテクニークのプロセスを黙々とこなし意外にも癒しの時を過ごしたかと思うとその後のインストラクターとの会話には茜里を現実に引き戻すトリガーが仕込まれている。
個人的にはこういう部分にとてもリアリティを感じる。
そう、その時その場所でその言葉を発したことで積み上がって来たかと思ったものが崩れ去るというのはあるものだ。

言葉というのは面白いな、と思う。
視覚的に追うだけなら記号に過ぎないのに文章が生まれ文脈が生まれ、読み手との関係の中でフィットしたりずれたりしながら物語になっていく。

家に戻り、ジャガイモを処理しながら意志の強そうな言葉を呟きながらも、それはどこか心細い。
そして冒頭にも出てきた海のつぶの描写。
つぶってなんだろう?と考えてはみるもののそれは何かの象徴とかメタファーではなく情景そのものなのかなとも思う。
頭の中に海の様子を思い浮かべる事で曖昧ながらも共有できる空気感というべきものがある気がする。

海に行って読んだらまた何か印象が変わるかな?

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かとうひろみさんの「はちまんびきのけもの」

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挿絵の描きやすさで言うと、とても描きやすかったです。

多分単純に動物が出てくるせいもあるけど、読んでいてヴィジュアル化しやすいオブジェクトがすぐに目についたことが大きかったと思う。
原稿を送った時点でとても気に入ってもらえたらしくDMでそのことをかとうさんが直接連絡くれました。
その中でかとうさんが扉絵について「植物にムシコナーズ的なものがぶら下がってる?とか、芸が細かい」って書いてて…

これって今明かされる驚愕の事実とでも言うか…
あれ鏡のつもりだったんです。
途中で鏡が入ってないなあって思って無理やり描き足したんですけどあそこに鏡をかける人はいないですもんね。
一応ムシコナーズって事に変更しておきますね。

かとうさんの作品は技巧派というか職人気質、アルチザン的要素が強い印象が僕の中であって、それは前作るるるるんvol.2「コン、コン」やソロ作品集「小さい本屋の小さい小説」を読んでみてもとても感じます。

ストーリーの骨組みのどこにどのように肉付けをするか。そのことで読者はどういう道筋でプロットを追ってくるのか。
それについての設計図があるかのよう。

もちろんそれはかとうさんの特徴というより文章を書く人からすればひとつの方法論としてむしろ正統的なことかも知れない。けれどそのことによってかとうさんの描く不安定な現実、通りすがりに視界の隅に見えた気がしたような、ともすれば気づかずに通り過ぎるだけみたいな世界に読者は無事?到着できる。

「小さい本屋の小さい小説」

”はっきりと思い出すことのできない顔つき”の登場人物が出てくる。
そういえばそんな人に会ったことがあるような気がするけどそれはまさにはっきりと思い出すことはできない。
こういう微妙に共感を感じさせそうな設定もかとうさんらしいと思う。

その”記憶に留めることのできない相手”と一夜を共にしながらもそのこと自体より相手の生活の”鏡の不在”に固執し自らも鏡を見ない生活を実践する主人公。
その後の鏡のない生活は終盤でその理由を知ることで終わりを告げ、「はちまんびきのけもの」というタイトルに込められた意味が読者にも明かされることになる。

このタイトル、すごく良いなあ。
語られたストーリーとタイトルの事が結びついてすごく余韻を楽しむことができる気がします。
相変わらず読後感はすっきりするわけじゃないのに全然別の意味でカタルシスがある。

ところで、今回僕は挿絵制作のため、3人の原稿を本の完成前に送ってもらって一度読んでるんですがその時はどんな物を描くかちょっと探しながら読んだので作品への没入感はほどほどでした。

で、この感想文を書くために改めて読み返して「あれ?」って思うことがあったんです。
みんな気づいているけど言うのは野暮と思っているのか、僕が間違っているのか?と思って念のためにかとうさんに確認したら正解とのこと。
みんなが気づいているかどうかは知る由もないみたいなので「ああ、あれでしょ?」って思う人はかとうさんにお知らせしてみてください。

正解した人には景品が…

ないです。

コン、 コン

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lulululun Vol.3 感想文を書く


るるるるんvol.3

出ました第3弾。

文芸ユニット「るるるるん」の。
なので読書感想文的なものを掲載してみようかと思います。
るるるるんとは、かとうひろみ、UNI、3月クララという3人の作家によるユニット。
共作ではなくそれぞれが独立して執筆した小説を1冊にまとめて発行しています。

このブログ、ほとんど更新してないしあまり読んでる人はいないと思うけれどもまずは備忘録と身近の人たち向けとか、あとは何かについて(書くことによって)考えるきっかけみたいな感じかな。

Vol.2の時も感想文書いててその後ほぼ更新が止まってるからるるるるん情報比率が高めですけど、今回vol.3は挿絵を提供するというちょっと関係者的立場なのでそういう視点からも書いておこうかと。

特に作品との関連で感じた挿絵の描きやすさ(あるいは描きにくさ)というポイントを冒頭に、あとは今回タイトル文字も手書きというリクエストをいただいて自分的には字がかなり苦手という意識があったしこれが正解だったのか今だに考える時があるんですがその辺も触れつつ場合によっては内容についても触れつつという体裁で書いていくかもしれません。

そして、多分そこそこ時間がかかります。

頑張ります…


夥しい数のスケッチ

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文系だとか理系だとか

中学くらいからうっすらと得意不得意教科の漠然とした印象をもとに文系理系という枠を意識するようになり大学受験を前に志望する専攻を決めるみたいな事が当たり前になってる。
もちろんそうしないと受験のためには効率の良い対応策が取れないし何より進路を決めなければならないのだからそれはそれで仕方のないことかなとも思う。

海外のことはわからないけど少なくとも日本ではやや理系重視の傾向を感じる。
でもそれはなんとなく経済優先主義から実学的な視点が大きく影響してるのではないか?
露骨な言い方ではあるけれど「金になる」学問みたいなイメージが固定観念的に付き纏っている気はする。理系の世界ですら直接的に技術開発などに関連付けられない、要するに経済に直結しない基礎研究に対しては制約も大きい話なども聞くことがある。

ただ最近は少し違う考え方も出てきてて、先日はJAXAが宇宙飛行士の募集条件に文系出身者を加えたり分子生物学者の福岡伸一氏が文系理系の枠にとらわれる事の弊害やアートに対する理解から得られる多様な思考について述べていたり、STEAM教育という考え方(science technology engineering art mathの頭文字)が出てきたり。
アートというのが文系と言えるのかどうかわからないけどとりあえず人文分野であり学校ではともすれば音楽、美術は選択制になったりして受講機会も不十分になりがちな教科ではあるので個人的には歓迎すべき動きがあるのかなとも思う。

そんな文系的、論理的思考と理系的、数式でちょっとしたアートを実現するProcessing というプログラミング環境を紹介するビデオをあげてみます。
説明も半端でチュートリアルではないのでこれを観て即コードが書けるという事ではないけど、例えば30行かそこらのプログラムでこんな感じの物が作れます、というサンプルです。
オープンソースで基本的に無償なのでプログラミングを体験してみるのに最適だと思います。

るるるるん 三月クララさん編

しばらく前に購入した独立系文芸ユニット「るるるるん」の作品集Vol.2についての感想第三弾。最終回は三月クララさん。

この本は基本的に右側綴じなんですがクララさんの作品は横書きであるため反対側、左綴じで読み始めることになります。これはいっそのこと反対側も何か表紙めいた意匠でもよかったかもしれないですね。

さてるるるるんVol.2の作品それぞれがそんなに長いものではありませんがクララさんの作品「光の中で」はまた4つのパートに分かれています。

4つのパートはおそらく同じ人物と思われる主人公の生活エリア、”Barで”、”オフィスで”、”領土で”、そして”休日に”というサブタイトルがついて最後の”休日に”というのは住んでいるマンション?の部屋が主な舞台。

最初のストーリー”Barで”で映画を観た後バーに向かう描写やバーでの成り行きを読み始めると何かスタイリッシュなシチュエーションでのややドライなストーリーを持ち味とする方なのかと思うんです。遊び人と思われる恋人のあしらい方やバーテンダーとのちょっと予想外のエピソード、そしてタクシーでの夜明け前の帰宅。タクシーの窓から見える光景はいかにも都会的…
そして家に着いて冷蔵庫を開ける。
中に「大事なもの入れ」と呼ばれる金属製のケースか何かがあるのだけれど詳しい説明はなく日々のちょっとした出来事に関連した収穫物をコレクションしているらしい。
この辺りから予想していたものとは少し違う雰囲気が感じられます。

次の章”オフィスで”では突然の場面の変化でしばらくは最初のストーリーとの関連がないのかと思いながらもだんだん同じ人物の勤務先での出来事らしいことがわかります。
面白いのはバーとオフィスはある意味主人公にとって対照的な描かれ方をしていてそれを象徴するかのようにバーではさくらんぼ、オフィスでは梅干しがキーになっています。
同じバラ科の植物の実でありながらその印象はかなり違う。

第3章の”領土で”というのは不思議なタイトルでバーやオフィスという具体的な場所を示す言葉ではないので何か特別な意味がありそう。
内容的にもいちばん意外性というか領土と呼んでいるその場所がなんなのか、かつて何が起きたのか想像するよりないしまた想像せざるを得ない。
ここでも詳細は何も知らされないためにはっきりとはわからないけれどおぼろげながらその起きたかもしれない出来事のことを思いながらさらに読み進めることでこの作品への印象がはっきりと大きく変わるのではないかと思います。
領土というのは自分が獲得したかに思われたが失いつつあるもののことなのか?

例えば悲しみは時間が解決してくれるという使い古されたフレーズがあります。
確かにそうなんだけど全てが綺麗さっぱり消えるわけではなくて何か少しづつ小さな滲みのようなものがなかなか消えずに残っている。日常の些細な引っかかりがその滲みのあたりに薄く堆積して見えにくくしていくけれどその存在を全く意識せずにいられる時はなかなか来ない。

最終章”休日に”で主人公がとる儀式めいた行動はつまりはヒーリングのような、あるいは一種の浄化のためのプロセスなのかなとも思う。
滲みや堆積物を洗い流す効果があるのか無いのか、信じているのかいないのかもわからないけれど。

さて、るるるるんの3人の作家さんの作品を読んで感想を書かせていただきました。
そもそもろくに読者のいないこのブログに掲載する事にどれだけの意味があるのかはわかりませんが何かの折にちょっと紹介などできる時もあるかも知れないし、何より自分のために過去のログとして残しておけばそれもまた役立つ時も来るでしょう。
個人的には最近の人文分野においていろいろな動きが活発化しているという実感があるのでささやかながらその中に身を置いてみたいという欲求もあります。

これを機にシステム的な問題で一度はほとんどデータを失ってしまったこのブログも細々と続けていければ良いなと思います。

るるるるん かとうひろみさん編

先日購入した文芸ユニットの作品「るるるるん Vol.2 冷蔵庫」
右側綴じで開いた場合の二人目、かとうひろみさんの「コン、コン」

小説の形をとる文章という意味ではるるるるんの3人の中で一番実績がある…とどこかに書いてあった気がするけど気がするだけかも知れない。

かなり練られたプロットという印象で描かれる様々なエピソードが終盤に向けての伏線だったり、そうじゃないものもあるけど…って書くとそりゃどっちかだろって思うかもしれないがストーリーの組み立てに必要なディテールと同様に一見関係ないような些細な日常の描写などはやはり登場人物に血を通わせるという意味でも重要ですよね。
そういうバランスがとても良いと思いました。

読みようによってはちょっとホラー?という感じ(ビビるほど怖いわけではない)なのである意味エンターテインメント性も高い分いわゆるネタバレに気をつけなければならないかもしれないけれど、そういう仕掛け的な部分は実は体裁に過ぎないのかなとも思う。
いちばん描きたかったのはそこではないみたいな。
この辺のところは他の作品も読んでみると印象が変わるような気がする。

そしてこの一冊「るるるるん Vol.2」を通してモチーフとなっている冷蔵庫はこの作品中ではさりげなくしかし重要な存在というか重要な存在の収納場所になっています。
主人公の生活の変化に呼応する形で冷蔵庫の中身も変化して中に入っていたもの、入っているものが説明されたりします。

生活の変化と冷蔵庫の中身の変化…
自分自身の一人暮らしの事とか思い出しそうになりますが、遠い昔のことで…

度合いの差はあれ誰にでも「あれは一体何だったのか?」というような経験があったりすると思うんだけどちょっとそういうことを思ったりしました。

これはちょっとそういうことでは済まないお話ですけど。